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AS OF TODAY


私はかつてエステティシャンや看護師として、多くの人と「短く限られた時間で深く関わる」仕事に従事してきた。他者の身体や心に触れる経験を通して、人間そのものが持つ複雑さに強く惹かれるようになった。


COVID-19流行下の3年間、医療従事者として閉鎖的な環境で過ごすなかで、患者以外の他者と関わる機会は大きく制限された。その反動のように、私は7年ぶりにカメラを手に取り、SNSでつながった見知らぬ女性たちと会い始めた。それが現在まで続くこのプロジェクトである。


彼女たちには、それぞれに思い入れのある場所を選んでもらう。その場所に身を置くことで、その人自身の記憶や身体感覚が立ち現れてくるからだ。そこをともに訪れ、即興的なスナップショットを撮影しながら対話を重ねる。時にはカメラを置いてただ話をし、河川敷に並んで寝転び、冷たい水に足を浸しながら同じ時間や感覚を共有する。私にとっての撮影とは、相手を観察し記録することではなく、その場をともに過ごし、互いに影響を受けながら関係が生まれていく過程である。


言葉を尽くしても、なお形になりきらずに溢れ出てしまうものや、関係性の微かな揺らぎがある。私はそうした瞬間に立ち現れる生々しい脆さを見つめ、言葉だけでなく、非言語的なコミュニケーションも重ねながらシャッターを切ってきた。そこにあるのは、「撮る/撮られる」という一方向の関係ではなく、写真を介して互いの存在に触れ、その時間を確かめ合うための対話である。


この深くて遠い「親密な他者」と過ごした時間を写真として定着させることは、他者と向き合い、その存在と関わり続けようとする私自身の実践でもある。その実践は、これまでの職業経験に根ざした「ケア」の感覚と、どこかでつながっているように感じている。


                                     梶瑠美花



Eye-level view of a vibrant abstract painting

撮る/撮られるから、写真による対話へ     タカザワケンジ(写真評論家)



ポートレイト写真にはセンシティブな問題がつきまとう。

カメラを手にした側は、レンズの前にいる人物をコントロールし、自身の意に沿う写真を撮ろうとする。

 

シャッターを切る決定権はカメラを手にした側にある。写真撮影が創作である以上、作者のエゴが発揮されるのは当然だ。しかし、相手が人間である以上、撮る/撮られるという関係には必然的に権力関係が生まれてしまう。

 

しかし撮られる側がいつもコントロールされる側にとどまり、黙って撮られているだけというわけではない。カメラを手にした人間が「撮りたい」と思うように、「撮られたい」と思ってレンズの前に立つ人がいる。

 

どう撮りたいか、どう撮られたいかというそれぞれの欲望がスパークした結果──それが梶瑠美花の写真である。

 

梶は本展のステートメントで制作プロセスを明かしている。(1)ソーシャルネットワークを使用し写真に写りたい人物を探す。(2)その人物が指定した日時に指定された場所に行き、その場で即興的にスナップショットのスタイルで写真を撮る。(3)同日インタビューも併せて行い、彼女らに話したいことを話したいだけ話してもらう。

 

なぜ梶は彼女たちを撮りたいのか。梶はその根拠に自身が従事していた医療現場で論じられているケアの概念を置いている。対人関係のプロセスそのものがケアになるという考え方だ。

 

なぜ彼女たちは梶に撮られたいのか。その問いに対する答えはさまざまだろうし、言語化するのは困難だろう。梶は写真を撮ることで、言葉のいらないコミュニケーションの可能性を示す。そのうえで彼女たちが発したい言葉に耳を傾ける。

 

そこには撮る側と撮られる側が、ともに何かを表現したい、発信したいという共通の動機が存在する。動機はある。しかし伝えたいことがうまく言葉にならない。そうした手探りの状態での表現は写真が得意とするところである。

 

写真はその表面だけを写すだけで、何の評価もジャッジもしないからだ。

 

梶は写真を撮り、文章を書き、それをアーティスト・ブックにまとめている。今回は初めて展覧会をいう方法を採り、空間の中でどう表現するかという課題に挑戦する。アーティスト・ブックではモデルとなった女性たちが一つに溶け合い、そこに何人の人物が写っているのかも曖昧だ。

撮る/撮られるという境界すら曖昧になり、作者自身がこの中にいるのではないかとさえ思う。

 

19世紀のヨーロッパで科学的な知見をもとにリアリズムを追求した自然主義文学の一つに小説『ボヴァリー夫人』(1857)がある。宗教的なモラルに反すると批判され、議論を巻き起こしたが、作者のフローベルは敢然と「ボヴァリー夫人は私だ」と語った。描いた対象にまっすぐに向き合った結果、性差や設定を超えてその主人公は作者自身になったのだと。

 

梶もまた言うだろう。「彼女たちは私だ」



(本テキストは2024年7月に開催された金村修ワークショップ企画による展覧会に寄せて寄稿して頂きました。)

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