撮る/撮られるから、写真による対話へ タカザワケンジ(写真評論家)
ポートレイト写真にはセンシティブな問題がつきまとう。
カメラを手にした側は、レンズの前にいる人物をコントロールし、自身の意に沿う写真を撮ろうとする。
シャッターを切る決定権はカメラを手にした側にある。写真撮影が創作である以上、作者のエゴが発揮されるのは当然だ。しかし、相手が人間である以上、撮る/撮られるという関係には必然的に権力関係が生まれてしまう。
しかし撮られる側がいつもコントロールされる側にとどまり、黙って撮られているだけというわけではない。カメラを手にした人間が「撮りたい」と思うように、「撮られたい」と思ってレンズの前に立つ人がいる。
どう撮りたいか、どう撮られたいかというそれぞれの欲望がスパークした結果──それが梶瑠美花の写真である。
梶は本展のステートメントで制作プロセスを明かしている。(1)ソーシャルネットワークを使用し写真に写りたい人物を探す。(2)その人物が指定した日時に指定された場所に行き、その場で即興的にスナップショットのスタイルで写真を撮る。(3)同日インタビューも併せて行い、彼女らに話したいことを話したいだけ話してもらう。
なぜ梶は彼女たちを撮りたいのか。梶はその根拠に自身が従事していた医療現場で論じられているケアの概念を置いている。対人関係のプロセスそのものがケアになるという考え方だ。
なぜ彼女たちは梶に撮られたいのか。その問いに対する答えはさまざまだろうし、言語化するのは困難だろう。梶は写真を撮ることで、言葉のいらないコミュニケーションの可能性を示す。そのうえで彼女たちが発したい言葉に耳を傾ける。
そこには撮る側と撮られる側が、ともに何かを表現したい、発信したいという共通の動機が存在する。動機はある。しかし伝えたいことがうまく言葉にならない。そうした手探りの状態での表現は写真が得意とするところである。
写真はその表面だけを写すだけで、何の評価もジャッジもしないからだ。
梶は写真を撮り、文章を書き、それをアーティスト・ブックにまとめている。今回は初めて展覧会をいう方法を採り、空間の中でどう表現するかという課題に挑戦する。アーティスト・ブックではモデルとなった女性たちが一つに溶け合い、そこに何人の人物が写っているのかも曖昧だ。
撮る/撮られるという境界すら曖昧になり、作者自身がこの中にいるのではないかとさえ思う。
19世紀のヨーロッパで科学的な知見をもとにリアリズムを追求した自然主義文学の一つに小説『ボヴァリー夫人』(1857)がある。宗教的なモラルに反すると批判され、議論を巻き起こしたが、作者のフローベルは敢然と「ボヴァリー夫人は私だ」と語った。描いた対象にまっすぐに向き合った結果、性差や設定を超えてその主人公は作者自身になったのだと。
梶もまた言うだろう。「彼女たちは私だ」
(本テキストは2024年7月に開催された金村修ワークショップ企画による展覧会に寄せて寄稿して頂きました。)
ステートメント AS OF TODAY 2024 梶 瑠美花
コロナ渦に医療期間で働いていた私は病院以外の世界から断絶されて、まるで⾃分が医療者というただのNPC にでもなってしまったかのように感じていた。⾮⾝体的なインターネット空間の中では制約もなく誰とでもつながれたような気でいたが、現実の⽇常的な社会や⼈々との接点が希薄になっていくにつれ、⾃⾝や他者に対する境界は曖昧になっていった。
このプロジェクトは、⾃⼰と他者との関係性およびその対⼈関係のプロセスに関するものである。医療者としての⾃⼰から離れ、新しい場で他者と現実的なコミュニケーションを取りながら撮影⾏為を⾏う。
⼿法としては、
(1)ソーシャルネットワークを使⽤し写真に写りたい⼈物を探す。
(2)その⼈物が指定した⽇時に指定された場所に⾏き、その場で即興的にスナップショットのスタイルで写真を撮る。
(3) 同⽇インタビューも併せて⾏い、彼⼥らに話したいことを話したいだけ話してもらう、というものである。
過去におけるポートレート写真の名作は、伝統的に中判や⼤判カメラで撮影されたものも多く、それらはまたとても優れたものである。⼀⽅で、レンズ⼀体式の⼩型カメラで速射的に撮ることや、カメラを置いて対話する時間を十分に取りながら、コミュニケーションを体験として共有することもまた、⼈間を撮る上で有効な⼿段になり得るのではないかと考えた。
⽇時や場所は相⼿が選ぶ。その⽇初めて訪れる場所も少なくない。これには事前に想定できるものを極力排除したいという意図もあるが、彼女らに選択権があることを明示する目的もある。
モデルは、プロジェクトに関⼼を持った一般女性のほぼ全員を2年弱かけて撮影した。ある程度の年齢幅はあるが、おおむね同世代の女性が⼤半を占めた。彼女らが写真に写る動機やその選択にはさまざまあると思われるが、撮影していくうちに彼女らの写真に写りたいという欲求や、撮られることによる互いの⼼の動きへ関⼼が強まっていった。
医療現場では、対⼈関係のプロセスそのものがケアになるという考え方がある。対⼈関係論で知られる看護学者のヒルデガード・ペプロウ(Hildegard E. Peplau, 1909-1999 年 ) が、著書『人間関係の看護論』で提唱したものである。
訳者らが「病人を看護するときに、看護婦である私と患者との間でどのようなことがおこっているだろうか、患者はわたしをどうみるか、私がする働きかけをどう受け取るか、私の働きかけの結果、患者はどう変わったか、相手の存在を意識した場合にいろいろの疑問が浮かんでくる」と述べるのだが、わたしが写真を撮るときにも同じようなことを考える。ならば、このような患者-看護師間における対人関係のプロセスを、撮影者-被写体間における関係性にも適用できるだろう。
もし世界に⾃分ひとりしか存在しなければ、⾃⼰はどのように位置づけられるのだろう。
彼女らは、他者との対話を通して⾃⾝を再認識し、⾃⼰を位置づけていく。このプロセスでは、外部と接続するために窓を開き外にでることが必要であるが、同時に鏡を⾒つけそこに自己を感じることも重要である。このようなプロセスが被写体だけではなく、撮影者にも同様に起こることを体験の中で実感した。
他者を知るために、境界への⾏き来を繰り返す。このことにより自己が更新されていくプロセスがある。
願わくはこの相互作用が被写体-撮影者間のみに留まらず、さらなる外側へと続いていくことを期待している。
ステートメント AS OF TODAY 2022
私の作品は、無意識の探求・表出による、人間の全体性の回復を目指したシュルレアリスムに着想を得た表現をコンセプトとしています。カメラの出現により、人はシャッターさえ押せば写真を撮ることが可能になりました。そこに写るものは絵画のように、1から10までの全てが画家の手によって描かれたものとは異なります。そこに、意図しないものが存在している可能性があると仮定し、写真表現による無意識の抽出を試みました。
シュルレアリスムに多大な影響を及ぼした、ジークムント・フロイト( Sigmund Freud, 1856-1939年 )による精神分析では、自由連想法を用いて、無意識領域を顕在化することによる心理的抑圧の開放を目的としました。作品の中で、医師-患者関係を、撮影者-被写体関係になぞらえ、対人関係のプロセスの中で、テラピー的作用が生じていくと考えました。
撮影者-被写体は、はじめに互いに未知の人として出会い「1. 方向づけの段階」から「2. 同一化の段階」へ進みます。互いに自己投影することもあれば、心理的な転移が生じる場合もあります。対人関係理論で知られる、看護学者ヒルデガード・ペプロウ(Hildegard E. Peplau, 1909-1999年 )の看護理論では、そこから「3. 開拓利用の段階」、「4. 問題解決」と、4つの段階へ発展していくとしています。
鑑賞者もまた、作品を見ることによってそれぞれの自己が持つ抑圧された意識に触れるとき、作品と鑑賞者との間へも相互作用が及ぶことを期待しています。
ver.2022/11/1